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東京地方裁判所 昭和30年(ワ)8192号 判決 1957年2月11日

原告 赤城印刷株式会社

被告 川井武夫

主文

被告は、原告に対し

(一)  金三十七万五千十二円四十銭及びこれに対する昭和三十年五月一日以降完済に至るまで年六分の金員を

(二)  「東京電話(各区別)案内」と題する書籍七十七部を被告に引渡すと引換に、金二千九百八十七円六十銭及びこれに対する昭和三十年五月一日以降完済に至るまで年六分の金員を

支給え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、全部被告の負担とする。

この判決は、第一項にかぎり、原告において金十二万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は、「被告は、原告に対し金三十七万八千円及びこれに対する昭和三十年五月一日以降完済に至るまで年六分の金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、

一、その請求の原因として、

(一)  被告は、訴外川井千代が訴外川井商事株式会社に宛てて振出した

(1)  金額十五万円、満期昭和三十年三月三十一日、支払地東京都台東区、支払場所共積信用金庫本店、振出地東京都渋谷区、振出日同年二月三日

(2)  金額十五万円、満期昭和三十年四月十五日、支払地、支払場所、振出地及び振出日いずれも(1) と同様

(3)  金額七万八千円、満期昭和三十年四月三十日、支払地東京都、支払場所(1) と同様、振出地東京都(振出人の肩書地として東京都渋谷区上通二丁目十番地なる附記がある。)、振出日同年三月二十四日

と定めた約束手形各一通(以下本件手形と総称する。)について振出人のため手形上の保証をした。

(二)  原告は、訴外川井商事株式会社から本件手形の裏書を受け、現にその所持人である。

(三)  原告は、本件手形を、満期に支払場所に支払のため呈示したところ、いずれも支払を拒絶された。

(四)  よつて原告は被告に対し本件手形金額合計金三十七万八千円及びこれに対する満期の後である昭和三十年五月一日以降完済に至るまで手形法所定の年六分の利息の支払を求める。

と陳述し、本件手形の支払場所として定められている共積信用金庫本店は、東京都台東区内に所在するものである。

と釈明し、

二、被告の抗弁に対して、

(一)  被告は本件手形の保証人であるところ、被告が抗弁として主張するところは、後述する訴外川井商事株式会社と原告との間の請負契約に基く原告の債務不履行を前提とするものであり、被告自身の原告に対する抗弁事由ではないのであるから、主張自体として許されないものである。

(二)  仮に被告の抗弁が主張自体としては許されるものとされる場合においては、本件手形が被告主張の書籍の印刷及び製本に関する請負契約(但し、その注文者は被告ではない。この点については後に詳述する。)に基く報酬金の支払のため振出されたものであることは認めるが、その他の被告主張事実はすべて争う。

(1)  原告は、被告主張の書籍の印刷及び製本を被告から請負つたのではない。その注文者は訴外川井商事株式会社であり、その契約条項も被告の主張するところとは相異しているのである。即ち原告が印刷及び製本を請負つた書籍の部数が一万部であつたことは被告のいう通りであるが、被告の主張するように百斤アート紙を使用し、校正を原告の責任において完了するものとする約定はなされたことはなく、報酬金は被告の主張する如く金三十五万円ではなく金三十八万八千円と定められたのである。被告は納入の期限を昭和三十年一月末日と約定したと主張するが、同月中に成立した前記請負契約に基く一万部の書籍の印刷及び製本が一ケ月を出ない同月末日までに完成し、その納入を完了できるはずもなく、昭和三十年一月末日という期日は原告において同日までに納入を完了できるように努力するという意味で、一応の目標を定めたに過ぎないのである。

(2)  訴外川井千代は、訴外川井商事株式会社の原告に対する前示請負契約に基く報酬金三十八万八千円の支払のため、本件手形中原告主張の(1) 及び(2) の金額いずれも十五万円の約束手形のほか、金額八万八千円、満期昭和三十年二月二十八日、その他の手形要件は原告主張の(3) の約束手形と同様の約束手形を被告の保証の下に訴外川井商事株式会社宛てに振出し、原告は右約束手形三通の裏書を受けたのであるが、その後被告より、最も早く満期の到来する前示金額八万八千円の約束手形を満期に支払うことができないから、これを書替えさせてもらいたいとの懇請があつたので、右手形金額の内金一万円の支払を受け、右手形を原告主張の(3) の約束手形に書替えさせたのである。

(3)  原告が訴外川井商事株式会社から請負つた印刷の校正については、注文者から提供された原稿通りに印刷したゲラ刷りを、約旨に基いて同会社が自ら校正し、この校正に基く再度のゲラ刷も同会社が校正して校了としたので、原告はその校正通りに印刷の上見本用の製本を造り、これを同会社に点検させ、それで好いということであつたので、全部の印刷及び製本を仕上げたのである。従つて校正について原告に疎漏の点があるべきはずもないのである。

(4)  原告が訴外川井商事株式会社に現実に納入した部数は、被告の認める九千八百九十三部のほか、これより先昭和三十年二月十二日納入した三十部を合わせて九千九百二十三部である。残りの七十七部については、訴外川井商事株式会社において、これに折込むべき同会社の販売にかかるテレビの宣伝広告ビラがないので、それが出来るまで納入を見合わせるようにとの申出があつたので、原告においてその納入を差控えたのである。原告の納入したものの中に被告の主張するような不良品百五十部があつたようなことは絶対にない。

叙上の通りであるから被告の抗弁はいずれも失当である。

と陳述し、

三、証拠として甲第一乃至第七号証を提出し、証人鷺内盛康の証言を援用し、乙第一号証及び第三号証の成立並びに乙第二号証、第四号証及び第五号証がそれぞれ被告主張のようなものであることは認めると答えた。

被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。」との判決を求め、

一、答弁として、「原告主張の請求原因事実はすべて認める。」と陳述し、

二、抗弁として、

(一)  本件手形は、左記のような原因に基いて振出され、且つ被告においてその保証をしたのである。

(1)  被告はその考案編集にかかる「東京電話(各区別)案内」と題する書籍を出版し、訴外川井商事株式会社にこれを販売させるため、昭和三十年一月中旬その印刷及び製本を原告に請負わせた。この請負契約の要旨は、(イ)部数一万部、(ロ)用紙百斤アート紙、(ハ)校正は原告の責任において完了すること、(ニ)報酬は金三十五万円(但し、後に原告と被告との合意により金三十四万八千八百円に減額された。)とし、その支払については製本の出来次第協定すること、(ホ)納入は昭和三十年一月末日までに完了することというにあつた。

(2)  ところが原告は、その後右請負にかかる印刷及び製本の完了しない前に被告に対し請負報酬金の支払確保のため約束手形の振出を懇請したので、被告の妻である訴外川井千代において訴外川井商事株式会社に宛てて本件手形を振出し、これに被告が手形上の保証をなし、且つ訴外川井商事株式会社が白地裏書をして原告に譲渡したのである。

(二)  しかるに原告は、前記請負契約に基く債務を完全に履行しないのである。即ち原告は、(イ)用紙の質を落して六十斤アート紙を使用し、(ロ)被告が原告に渡した原稿に記載されている都内在住の弁護士の名簿欄中千代田、中央、新宿及び港区の四区以外の印刷を脱落し、(ハ)納入期日におくれて昭和三十年二月十四日に九千八百九十三部(その内百五十部はそれ自体として販売に適しない程度の不良品であつた。)だけを納入したのである。従つて前叙請負契約に基く被告の原告に対する報酬金債務についてはまだ履行期が到来するに至らないのである。

(三)  従つて右請負報酬金の支払のために振出された本件手形に保証をした被告は、現在としてはその支払の責に任ずべきものではないのである。

(四)  仮に右の主張が排斥されるならば、被告は、以下に記載する如く本件手形に基く被告の債務に対し相殺を主張する。即ち、

(イ)  被告は、原告より納入を受けた前記書籍の販売に努力したが、前述のような印刷の脱落があり用をなさないため全部返品されてしまつた。

(ロ)  その結果被告は、次のような合計金四十四万七千円の損害を蒙つた。

(1)  金一万七千五百円、被告がその販売すべき書籍の見本刷五千部の印刷費として支出した金額(一部当り金三円五十銭)

(2)  金二万円、前同様見本刷一万部の印刷費として支出した金額(一部当り金二円)

(3)  金二万七千円、被告が右見本刷三千部の郵送費として支出した金額(一部当り封筒代金一円及び郵券代金八円)

(4)  金三十三万七千五百円、被告が前述の販売のため、毎月三十人ずつ四十五日間アルバイトを雇入れたについて支出した金額(一日一人当り日当金二百円及び弁当代金五十円)

(5)  金三万円、被告が二十日間自動車を使用して販売先に配本したことによる運送賃して支出した金額(一日当り金千五百円)

(6)  金一万五千円、被告が十日間自動車を使用して販売先からの返本を回収したことによる運送賃として支出した金額(一日当り金千五百円)

(ハ)  そこで被告は、本訴において、右損害賠償請求権と本件手形金債務(但し、上述したとおり本件手形は、原被告間の請負契約に基く報酬金の支払を確保するためのものであるところ、右報酬金額は、最初金三十五万円の約定であつたものが、その後原被告の合意により金三十四万八千八百円に減額されたばかりでなく、右請負契約に基いて原告が被告に納入した書籍は、契約にかかる一万部中九千八百九十三部に過ぎず、しかもその内百五十部は販売に適しない不良品であつたのであるから、未納入分の百七部と不良品百五十部以上合計二百五十七部分については、被告において報酬金支払の義務がないのである。)とを対当額において相殺する。そうすると被告は原告に対しもはや本件手形について支払の責に任ずべき余地はないのである。

と陳述し、

三、原告は、被告の抗弁が主張自体として許されないものであるという。けれども本件手形は、訴外川井千代が訴外川井商事株式会社に宛てて振出し、被告が振出人のために保証をし、訴外川井商事株式会社が原告に裏書したものではあるが、これは原告からの申出によりさようにしたまでであつて、その実質は、先に主張した如く被告が原告との間に締結した「東京電話(各区別)案内」なる書籍一万部の印刷及び製本に関する請負契約に基く報酬金の支払を確保するためのものであるから、原告が右請負契約に基く被告に対する債務に不履行のある以上、被告は形式上本件手形の保証人であるとはいえ、原告に対し上述のような抗弁を主張し得ることは当然であるといわなければならない。

と反駁し、

四、証拠として、乙第一乃至第五号証を提出し、乙第二号証は被告主張の書籍の内容見本、乙第四号証は訴外川井商事株式会社において被告主張の書籍の販売商策上購読者に抽籤により提供しようとした景品の宣伝用に配布したビラ、乙第五号証は原告から納入された書籍の一冊であると説明し、証人栗原天兎及び川井千代の証言並びに被告本人の尋問の結果(第一、二回)を援用し、甲第一号証乃至第六号証の成立を認める、第七号証の成立は知らないと答えた。

理由

一、原告主張の請求原因事実は、当事者間に争がない。ところで本件手形中原告主張の(3) の約束手形は、支払地及び振出地をともに単に「東京都」とのみ定められ、最小独立の行政区画を以て表示されていないけれども、支払地は、東京都台東区内に存することが当事者間に争のない共積信用金庫本店が支払場所に定められているところからいつて、「東京都台東区」と定められたものということができる(いやしくも手形取引に関係しようとする程の者ならば、右手形の支払地及び支払場所の記載自体からして共積信用金庫本店が東京都台東区内に所在することを容易に知ることができるはずである。)し、又振出地の記載は、主として手形振出行為の準拠法を定める基礎として意義を有するにとどまるものであるから、必ずしも最小独立の行政区画を以て指定する必要はなく、従つて単に「東京都」とのみ表示されていても振出地の記載に欠けるところはないものというべきであるのみならず、前記手形においては振出人の肩書に「東京都渋谷区上通二丁目十番地」なる附記のあることが当事者間に争のないところからして「東京都渋谷区」を振出地と定めたものとみなされるのである。してみれば原告主張の(3) の約束手形は手形要件を完備した有効なものというべきである。

二、そこで被告主張の抗弁について判断する。

(一)  原告は被告が本件手形の保証人であることから、被告主張の抗弁は、それ自体抗弁として許されないと主張する。約束手形の保証は、その担保した債務が方式の瑕疵を除き他の如何なる事由によつて無効であるときでも有効とされることは、手形法第七十七条第三項によつて準用される同法第三十二条第二項の規定するところであり、従つて約束手形の保証人は、主たる債務者が所持人に対して有する人的抗弁を主張して自ら債務の履行を拒否することはできないものといわなければならない。しかしながら、本件において被告が抗弁として主張するところは、本件手形が被告の保証の下に訴外川井千代から訴外川井商事株式会社に振出され、同会社から原告に裏書された実体上の原因は、被告が原告に請負わせた「東京電話(右区別)案内」と題する書籍一万部の印刷及び製本の報酬金の支払を確保するためのものであつたということを前提とするものであるから、もしその通りの事実関係であるとするならば、被告は実体関係に基く自らの原告に対する抗弁事由を主張するにほかならず、被告が保証した主たる債務者である訴外川井千代の原告に対する人的抗弁を主張するものではないというべきである。かくの如き場合に前掲手形法の規定を根拠として被告の抗弁をそれ自体許されないものという論にはにわかに賛し難いのである。もつとも原告は、原告と被告との間に被告主張のような請負契約が成立したことを否認し、右契約は原告と訴外川井商事株式会社との間に締結されたもので、本件手形はこの契約に基く訴外川井商事株式会社の原告に対し報酬金債務の支払のためのものであると主張するので、被告の抗弁が抗弁として許されるかどうかは、結局被告の主張する事実関係がその通りに認められるかどうかにかかつていることになるのである。それで以下この点について考察することとする。

(二)  成立に争のない乙第一号証及び第三号証並びに甲第四号証(乙第一号証は原告が被告主張の書籍の印刷及び製本の請負の報酬金について発行した見積書であることが証人鷺内盛康の証言により、乙第三号証は原告がその印刷及び製本にかかる被告主張の書籍九千八百九十三部を納入した際に発行した納品票であることが証人川井千代の証言により、甲第四号証は原告が被告主張の書籍一万部の印刷及び製本を請負うについて発行した精算書であることが証人鷺内盛康の証言によりそれぞれ認められる。)の宛名がいずれも「川井商会」と記載されていること、被告主張の書籍の内容見本であることについて争のない乙第二号証に印刷発行者として「東京電話協会」(これが何人を指称するかは後述するところに譲る。)なる表示があること並びに原告が印刷及び製本の上納入した被告主張の書籍の現品の一冊であることが争のない乙第五号証において著作権所有者が「東京電話協会」と表示され、且つ被告名義で創刊の辞が掲載されていることに証人川井千代及び鷺内盛康の各証言並びに被告本人尋問の結果(第一回)を総合すれば、被告主張の書籍は、被告の考案編集にかかるものであつて、被告は、「東京電話協会」なる商号でこれを出版し、被告が代表取締役に就仕している訴外川井商事株式会社に販売させようとしてその印刷及び製本を原告に請負わせたものであることを認めることができる。成立に争がなく、前掲被告本人尋問の結果により原告が被告主張の書籍九千八百九十三部を納入した際原告に交付された受取書であることが認められる甲第六号証には訴外川井商事株式会社の印が押捺されているが、成立に争いがなく、証人川井千代の証言及び被告本人尋問の結果(第一回)により、右九千八百九十三部の納入前に三十部が原告から納入されたときの受取書であることが認められる甲第五号証に被告の印が押捺されていることに対比し、且つ前掲被告本人尋問の結果によれば、甲第六号証の訴外川井商事株式会社の印は原告から書籍の納入があつた際その場にあつた右印が押捺されたものであること(何人が押捺したかを明らかにする証拠はないが、少くとも被告自身ではない。なお、訴外川井商事株式会社の本店が被告の住所にあることは本件弁論の全趣旨に徴して疑いのないところである。)が認められることからいつて、必ずしも前叙認定の支障となるものではない。更に証人鷺内盛康の証言によつて成立を認め得る甲第七号証は、その宛名が「川井商事」(訴外川井商事株式会社を指すものと解せられる。)となつているが、右証人の証言によると、甲第七号証は原告が被告主張の書籍の印刷及び製本に関する請負契約による報酬金の支払のため本件手形中原告主張の(1) 及び(2) の約束手形並びに同じく(3) の約束手形の書替前の原告主張にかかるこれと同金額の約束手形を訴外川井商事株式会社からの裏書により取得した際に同会社に宛てて発行した領収証の控であることが認められるところ、右各約束手形が訴外川井千代から訴外川井商事株式会社に振出され、同会社からこれを原告に裏書し、被告は振出人である訴外川井千代のために保証をしたにとどまることと原告に対する印刷及び製本の注文者が何人であるかということとの間に直接の関連関係が存したことを認め得る何等の証拠もない以上、甲第七号証の宛名が訴外川井商事株式会社となつていることは、豪も前掲認定の反証となり得るものではないというべきである。他に右認定を覆すに足りる証拠は全然存しない。

これを要するに、被告主張の書籍の印刷及び製本に関する請負契約は、原告と被告との間に締結されたものというべきであり、従つて被告の抗弁は、その当否については勿論更に検討を要するところであるとはいえ、主張自体として許されないものとはいえないのである。

(三)  そこで進んで被告の抗弁の実質的当否について審究することとするが、先ず被告主張の事実関係を認め得る証拠の存否について調べてみる。

(イ)  原告が被告から請負つて印刷及び製本した書籍の紙質が約定に反する劣等なものであるかどうかという点について。

原告が請負により印刷及び製本した書籍の用紙として百斤アートが使われなかつたことは、原告の明らかに争わないところであるから、原告においてこの事実を自白したものとみなす。しかしながら原被告間の請負契約において用紙の質を百斤アートと定めたということについては、直接これを認め得る証拠はない。ただ証人川井千代の証言及び被告本人尋問の結果(第一回)中に、被告は、原告に対し内容見本刷(乙第二号証)の用紙と同一の質の用紙により印刷及び製本を頼んだ旨述べている部分があり、乙第二号証の用紙と、上述した通り原告の納入にかかる現品の一冊である乙第五号証の表紙以外の用紙とを紙質において比較するとき、後者が前者に劣ることは一見して明白であるが、上掲証言及び本人尋問の結果はいずれも措信することができない。

(ロ)  原告が印刷及び製本した書籍に、被告から原告に渡された原稿中都内在住の弁護士の名簿欄の千代田、中央、新宿及び港区以外の印刷が脱漏しているかどうかという点について。

前掲乙第五号証を検するに、右の弁護士名簿欄には千代田区、中央区、新宿区及び港区以外に在住する弁護士が掲載されていない(港区在住の弁護士についてはその一部が掲載されているに過ぎないことが当裁判所に明らかである。)ことが認められるけれども、この掲載洩れが被告において原告に渡した原稿通りに印刷することを原告が脱漏したことによるものであることについては、証人川井千代の証言及び被告岩本人の尋問の結果(第一回)中にその趣旨に副うものがあるが、後掲判示するところに照らしてにわかに措信することができない。即ち前出乙第五号証をみるに、その弁護士名簿欄は百三十七頁から百五十三頁に亘つて継続して、詳言すれば弁護士の事務所々在地の区が変つた場合にも頁を変えることなく通して印刷されているのに、最後の頁は十四行目に「港区」と表示して以下十四名の弁護士の氏名、事務所々在地及び電話番号が印刷された後に若干の空白が残されているところ、証人鷺内盛康の証言によると、乙第五号証は再校(一部は三校)を経て印刷に付したもので、校正には被告自らが当り、ただ最後は原告の責任校了としたことが認められる(被告本人尋問の結果(第一回)中、校正は最初のうち被告自らがしたが、非常に疲れてできないので原告の責任校了としたとの供述は、右認定の趣旨においてのみ採用し得べきものである。)から、乙第五号証の弁護士名簿欄の印刷が被告から原告に渡された原稿の一部を原告がその過失により脱落したものとは到底解せられないのである。むしろ被告が原告に渡した原稿には弁護士名簿欄に関しては、現に乙第五号証に印刷されているだけの記載しかなかつたものと推定するほかないのである。

(ハ)  原告の被告に対する書籍の納入が約定の期日におくれたかどうかの点について。

原告が請負に基き印刷及び製本した書籍九千八百九十三部を納入した日時が昭和三十年二月十四日であつたことは、原告の明らかに争わないところであるから、原告においてこれを自白したものとみなすべきである(原告がこれより先既に三十部を被告に納入ずみであることは、後に認定する通りであるが、ここではこの点はしばらく論外とする。)ところ、被告は、原告の被告に対する納入の期限は昭和三十年一月末日限りとする約定であつたと主張するのに対して、原告は被告のいわゆる期限は納入に関する一応の目標としたまでであつて、その時までに原告において納入を完了する義務を負担する意味において約定されたものではないと抗争する。被告本人尋問の結果(第一回)中には、被告の主張する如き納入期限の約定がなされたことを窺わせるような趣旨のものが存するが、にわかに措信し難く、他に被告の前記主張を肯定させる証拠は見出されない。

(ニ)  原被告間の請負契約に基く報酬金の額が当初金三十五万円の約定であり、それが後に合意により金三十四万八千八百円に減額されたかどうかという点について。

この点に関する被告の主張を認め得る証拠はない(証人川井千代は、原告が被告から請負つた印刷及び製本の報酬金は一部当り金三十五円の約定であつたと聞いていると証言しているが、的確な証拠となし難い。)。被告は、乙第一号証の記載(但し一万部についての見積金額)をその主張の根拠としているものと思われるが、証人鷺内盛康の証言によると、乙第一号証は、原告が被告に対し印刷及び製本すべき部数が二万部である場合と一万部である場合とに別けて報酬金額を概算的に見積つて提示するために作成したものに過ぎず、原被告間において確定され報酬金額については、別に原告から被告に精算書即ち前出甲第四号証が発行されたことが認められ、右甲号証によれば原被告間の請負契約による報酬金の額は金三十八万八千円の定であつたことが認められるのである。

(ホ)  原告が被告に納入したもののうちに百五十部の販売不能の不良品が存在したかどうかという点について。

この点に関しては、被告がその本人尋問の結果(第一回)中において、原告から納入された九千八百九十三部のうちには製本のまずさのために販売不能となつたものが約二百部ぐらいある旨供述しているが、たやすく措信し難く、他にこの点に関する証拠に供し得る資料はない。

(ヘ)  原告が被告に対しなお百七部の書籍を納入していないかどうかという点について。

原告がその印刷及び製本にかかる書籍のうち七十七部をまだ納入していないことは、原告も自認するところであるが、残りの三十部が未納であることについては、これを認めるに足りる証拠はなく、かえつて成立に争のない甲第五号証に証人川井千代及び鷺内盛康の各証言並びに被告本人尋問の結果(第一回)を綜合するときは、被告が昭和三十年二月十四日原告より納入を受けたことを自認する九千八百九十三部とは別途に、同月十二日原告から被告に三十部が納入されたことを認めることができる(被告は、その第二回本人尋問の結果中において、被告が原告から受領ずみであるという九千八百九十三部は、その以前に原告が納入した三十部を含んだ部数であると思う旨供述しているが、前掲各証拠に照らして措信し難い。)。

以上説述したところに鑑みるときは、被告の抗弁は、原告から被告に対して納入すべき書籍につき未納分七十七部が存するということを前提とするもの以外は、すべて事実の基礎を欠くものであるということだけからいつても理由がないといわなければならず、しかも右に述べた未納書籍があるということを前提とする抗弁も、その納入がない限り、その部数に関する印刷及び製本の請負報酬金額に相当する範囲において本件手形金の支払を拒み得るという趣旨の主張に帰着する抗弁としてその意義を認め得る(被告は、かかる趣旨において抗弁を主張することを言葉として明確に述べてはいないが、本件弁論の全趣旨からみてかかる主張をしていることは疑いのないところである。)ものというべきである。ところで民法第六百三十三条本文によると、仕事の目的物の引渡を必要とする請負契約においては、報酬の支払と仕事の目的物の引渡とは同時履行の関係に立つものと規定されている。勿論この規定は任意規定であるから、当事者の合意によつてこれと異なる特約をなし得ることは当然である。本件についてこれをみるに、原告が被告のため印刷及び製本した書籍を被告に納入する義務と被告の原告に対する報酬金支払義務との履行期の先後について原被告間に特別の約定の存したことを認めさせる直接の的確な証拠は見出されない。しかしながら被告の原告に対する報酬金債務の支払のために本件手形を振出されて原告に裏書されたことが前叙の通りであり、証人鷺内盛康の証言及び被告本人尋問の結果(第一回)を総合すると、原告は報酬金について現金による前払を要求したが、被告の要請により手形で決済することにしたことが認められることからいつて、本件手形の各満期が特別の事情のない限り右報酬金の弁済期と定められたものと解すべきであるところ、本件弁論の全趣旨によると原告の被告に対する書籍納入義務の期限は、おそくとも本件手形の各満期以前に到来すべかりし約定であつたものと認められるのである。しかしながら本件手形の満期はいずれも現に経過ずみであることが明らかであつて、かように双務契約においる先履行義務が弁済期に達した後に相手方の債務についてもまた続いて弁済期に達した後に相手方の債務についてもまた続いて弁済期が到来した場合においては、両者の債務は引換に履行されるべき関係にあるものと解すべきである。ところで原告が被告から請負にかかる書籍のうち七十七部の納入をまだ完了していないことは前述した通りである。もつとも証人鷺内盛康の証言によると、右七十七部については、原告においてその印刷及び製本を完了して被告に納入しようとしたところ、被告においてこれに折込むべき訴外川井商事株式会社の販売にかかるテレビの宣伝広告ビラが手許にないから、それが出来るまで一時納入を見合わせるようにとの申出があつたので、原告において納入を差控えたものであることが認められ、この認定を左右する証拠はないのであるが、かかる事情の下においても原被告間の請負契約に基く書籍の納入債務と報酬金の支払債務とが引換に履行されるべきものであるとの結論に消長を来すものでないことは、双務契約に基く債務について同時履行の制度の認められる趣旨からみて疑いのないところである。ところで原告が被告に納入を完了していない書籍の部数は請負にかかる部数の一部に過ぎないのであつて、かかる場合においてはその未納入分の部数に相当する報酬金額についてのみ引換給付を命ずべきものであるところ、原被告間の請負契約における約定報酬金は書籍一万部の印刷及び製本につき金三十八万八千円であつたことは上述した通りであるから、これを基礎として未納入分七十七部及び納入ずみ分九千九百二十三部に対応する報酬金を算定すると、前者につき金二千九百八十七円六十銭、後者につき金三十八万五千十二円四十銭の計算となるのであるが、原告は、被告から原告に対して報酬金の内金一万円が支払ずみであることを認め、本件手形金額がその残額金に当るとしてその請求をしていることが明らかである。

三、さすれば原告の本訴請求は、原告が被告から印刷及び製本を請負つた書籍一万部のうち既に納入ずみの九千九百二十三部に関する報酬金中未払額に相当する金三十七万五千十二円四十銭及びこれに対する本件手形の満期の後である昭和三十年五月一日以降完済に至るまで手形法所定の年六分の利息の支払を求める部分については、そのまま正当としてこれを認容すべきであるが、未納入の七十七部に関する報酬金に相当する金二千九百八十七円六十銭及びこれに対する前同日すなわち昭和三十年五月一日以降完済に至るまで手形法所定の年六分の利息の支払、を求める部分については、右未納にかかる書籍七十七部の引渡と引換に支払を求める限度においてのみ認容すべきものとし(この部分の請求中手形法所定の利息は、いわゆる遅延利息ではなく手形法が特に定めた法律上の利息にほかならないのであるから、元本額について叙上の如く引換給付を命ずべきものであるにしても、これに対する法定利息の発生を停止するものではないと解すべきである。この点については、昭和三年(オ)第七八六号、同年十月三十日、大審院判決、民集七巻十一号八六五頁が参照されるべきである。)、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条及び第九十二条を、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を各適用して主文の通り判決する。

(裁判官 桑原正憲)

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